〜教育と日の丸・君が代〜

 

 広島の高校校長自殺を単に発した日の丸・君が代の法制化から、はや数ヶ月。法制化を進めていた当時、小渕首相らは「法制化により現場の混乱を防ぐ」と語っていた。現実はどうだろうか。

 

 

 東京都八王子市の市立中学教師が、授業でオウム真理教の一連の事件や学校の「日の丸・君が代」問題などを授業で取り上げ、「自分で考える事の大切さ」を生徒に訴えかけたのに対し、市教委が「校長の学校運営方針を批判するに等しい」との理由で、地方公務員法第33条(信用失墜行為の禁止)に抵触するとして、文書訓告を行った。

 解せないのは、市教委の対応である。

 第一に、都教委は「処分には当たらない」と結論しているにもかかわらず、市教委が独自に処分を決定した。なにゆえ市教委はこのような「突出」した行動に出たのか。

 第二に、件の教師は、授業の前日、校長にプリントを見せ、問題があれば指摘して欲しいと言ったという(朝日新聞より)。市教委の処分の根拠は、上述の通り「校長の学校運営方針を批判した」というものだ。ところがその校長自身、事実上そのプリントの内容を了承している。その結果、教師だけでなく、校長も口頭で訓告を受けるハメになった。

 市教委の「上下」ともに、処分するほどのことではない、というのが共通の認識というわけである。

 その「突出」ぶりは、市教委のコメントにもうかがえる。面白いのは、新聞で報道された市教委の訓告理由だ。曰く、「校長による国旗・国歌の指導がオウム真理教のマインドコントロールと同じであるかのように教えた」ということだそうだ。それを絶対化する今回の市教委の態度こそ、マインドコントロールと呼ばずして一体何と呼ぶのだろうか。今回問題になった授業の、教師の意図こそ「自分で判断する人間を育てる」ことにあったのである。ところが、市教委はそれを否定したのだ。つまりは、自分で判断せず、上の言うがままに従う人間を大量生産しなさい、と言っているわけである。これでは、よく言って「思想教育」というところだろう。

 東京都は、往々にして「日本の首都」である、というプライドを持ちがちである。石原都政にもそれがよく表れている。7つの副都心に首都機能を分散させようとした青島時代とは異なり、石原慎太郎知事は「強い東京」を目指して中央集権化を進めている。今回の事件も、そういった「東京が日本をリードする」という傲慢な意識の表れも一因になかったと言えるだろうか。

 結局、ここでもとばっちりを受けたのは校長だ。問題の教師の意図を汲んだからこそ、そのプリントの内容も了承したのだろう。その結果、自分まで訓告を頂戴してしまったのだ。結局、八王子市教委にとって、校長とは、現場で汗水たらして働く「教師」という奴隷達を管理するだけの、意思決定権など持たない現場監督でしかないのだ。

 何もこれは八王子市に限ったことではなかろう。10年ほど前に「ノンポリ」という言葉が流行ったが、現在ではノンポリすら知らない「超ノンポリ」の世代が増えている。日の丸・君が代を法律に明文化するかどうかという問題は、本来であれば国を二分する議論になってもおかしくない。それが、あっさり国会で押し切られ、はや既成事実と化している。挙句、誰の口にも話題にあがらなくなってしまった。今回の事件であっさりと明らかになったように、全く問題は解決していないにもかかわらず、である。

 超ノンポリを大量生産したのは、当然教育である。受験一辺倒の偏差値主義、意味不明な厳しい校則や生活指導などが大きく影響しているのは言うまでもない。

 

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